3月16日 木曜日の朝に
ロンドン滞在も、後1日だけになった。今週はずっとこの町に留まり、ゆっくりやりたいことをやって、私としては貴重な休暇を謳歌している。
美寧子も家事や雑事から解放されて、来月に迫ったリサイタルの準備などに専念している。私は、いつも「時間が足りない」という恐怖にさいなまれながら暮らしているのだが、今は「時間が十分にある」という大きな満足感と共に過ごしている。これも今日1日かと思うと寂しいが、そういつまでものんびりしてはいられないから、ちょうど良いところだろう。
月曜日はここに住む日本の音楽家たちと食事をしたし、昨夜はイギリスの視覚障害者の仲間とテーブルを囲んで、まるでクラス会みたいに楽しい時を過ごした。にぎやかなレストランの騒音、人々の声、早口でしゃべる仲間たちの英語、何から何まで、嘗てロンドンに住んでいた頃の懐かしい思い出を私の心に呼び起こしてくれるものばかりだ。何の遠慮もなくノスタルジックな思いに身を任せて、私は大声で泣きたいような気分だった。
だがそれは、決して絶望から来る思いではない。こうして友達と再会できた喜びが、私の身体を柔らかく包み込み、「また来よう」という新たな望みを私の中に広げてくれたのだ。今回は純然たる休暇にすると決めていたが、「次は演奏もしてくれよ」と皆に言われて、「やはりここでの仕事を続ける方策もしっかり考えなければ」と思った。待っていても仕事は来ない。自分から積極的に働きかける気持ちが薄らいだら、もうおしまいである。そのことを再確認し、「元気でやろう」と自分に言い聞かせることができただけでも、今回の休暇は大きな収穫があった。
時は春、日本はこれから私の好きな暖かい季節になる。いつも新鮮な心で、周囲に新鮮さを振りまくことのできる自分でありたい、と強く思う今朝の私である。
ところで、このホテルではロビーで無線ランが使えるため、私は部屋でメールを書いては、1階に下りて送信作業などをする。野球の世界大会も気になるので、何度も速報を見るためにロビーへ降りた。こうしてキーをたたいている間にも、何人もの人が旅立ち、またチェックインのためにやってくる。お客とホテルの人たちのやりとりをバックグラウンドに聴きながら、私はインターネットの世界に身をゆだねる。こんな経験も、滅多にできないことだろう。きっといつまでも忘れない、2006年の思い出の一つになるに違いない。
今日は、楽しみにしていたポリーニのリサイタルが中止になったため、個人的な思い出も多いウィグモア・ホールへアン・マレーのメゾソプラノ・リサイタルを聴きに行くことにした。シューマンの歌曲を存分に味わい、元気に帰国したいと思う。
和波たかよし
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